逃げて何になる


授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
家の目覚まし時計に比べれば、この間延びした電子音はクラシック音楽のように穏やかな筈なのに、それまで座睡していた生徒たちは一瞬にして意識を覚醒させた。なぜかチャイムは、時として教師の号令よりも意識に訴えかける力を持っているのである。
妙に生き生きとしてきた生徒たちを一瞥してから、教師が教科書を閉じ、教室を出て行く。後はふわあ、と誰かが大きな欠伸をするのを皮切りに、一斉に席を立つ者が出始める。
次の授業が始まるまで10分というカウントダウンが始まった。僅かな小休憩の時間。
一気に騒がしくなった教室の中で、ある者は怠惰そうに教科書を入れ替え、またある者は堰を切ったように近くの生徒と話し始める。日直の生徒は面倒な顔をしながら黒板を消し始めた。そんな中、人知れず立ち上がった黒子は立ち上がり教室から出ようとした。しかし、扉を通過してすぐに、横から飛び出した手に腕を掴まれ阻まれる。

「黒子っち、どこ行くんスか」

すぐ眼前にある、やけに整った顔。あまりにも間近にある笑顔に後ろに下がろうとして、軽くよろめいた黒子は、逆に引き寄せられて激突した。
慌てて離れて顔を上げると、目の前の顔は甘く微笑む。どうしたの?と言うように。
黒子には、そこに浮かぶ笑みが薄ら寒く見える。
何しろ、蕩ける様に柔らかな笑面に似合わず、腕にかかる握力は尋常ではない。
ギリギリと制服の繊維が軋むくらい二の腕を掴んでくる手に、黒子は痛みに耐えるように息をつめた。

「ただのトイレです。・・・腕が痛いので離してください」
「じゃあ、オレもトイレに行く」

黒子っちと連れション行く。と笑いながら黄瀬は黒子を先導するように歩き始める。
その力に引っ張られるに任せて、黒子は数歩、歩いた。しかし立ち止まる。
嫌だと言うように首を振って、掴まれた腕を離そうと手を振った。


視界の端には同じように友人同士でトイレに行く生徒たちがいるのだから、別段おかしな事ではない。連れションは学校ではよくある光景だ。
しかし、当然のように黄瀬の力が緩まないことと、これが始めてではないことが、黒子が嫌がる理由だった。
黄瀬は休み時間の度に黒子の教室にやって来る。学校で黄瀬の顔を見ないのは授業時間くらいだ。当然、トイレも一緒だ。むしろ最近では、いつも黄瀬と一緒にトイレに行っている。
いい加減に嫌になったというのが心情だった。だからはじめて、黒子は首を横に振った。

「今日はボク一人で行きます。黄瀬君は次の授業、移動教室でしょう」

黄瀬のクラスから生徒がゾロゾロと出て行くのを見て、黒子は促す。
同時に黒子の背後から黄瀬を呼ぶ女子生徒の声が飛んだ。早く行こうと。それに一瞬、黒子から目を反らした黄瀬は彼女たちに向かって手を振る。

「ちょっとトイレに行ってくるから、先に行ってて!」

黒子を挟んでそう言うと、有無を言わさず黄瀬は歩き始めた。
当然のように腕を掴む手は緩めないまま。こうなると黒子も諦めるしかない。
嘆息して、少し前を歩く男の横顔を睨みつける。

「・・・行きますから、手を離してください」

そう、再度腕を振って見せ主張してみた。だが、やんわりと笑われただけで無視される。
黄瀬はいつも黒子の意見を聞いてくれているようでいて、その実全く黒子の意見を聞いてくれなかった。
きっと黄瀬が手を離した後は、くっきりと手の痕が残っているだろう。制服を脱ぐことになる今日の部活時間を憂鬱に思いながら、黒子はトイレに連れて行かれる。

先に立った黄瀬は扉を開けた。
さながら女性がエスコートされるようなその仕草も、黒子にとっては多少不快であった。女性のように扱われて嬉しいわけがない。
だが、以前それを指摘するとやはり黄瀬は笑っていなしたのだ。

『トモダチっスから』


――黒子には分からない。今までこんなにも時間を一緒にする友人を持っていないので、そうなのかもしれないと思ってしまう。
少なくとも黄瀬の方が友人は多く、そんな黄瀬が言うのだから
これが親しい友人というものなのだろうかと納得するしかなかった。
気に入らないが、最近は慣れてもきていた。


一方は満面の笑顔。もう一方は疲れたような仏頂面の二人がトイレに足を踏み入れる。
年季を感じさせる音と共に扉が開き、少し肌寒い空気が表面を撫でる。
既に何人かの用を足している生徒とチラリと目があった。
彼らを通り過ぎて、その奥の小便器に黒子たちは歩いていった。


「・・・・・・あの、手を離してください」

便器の前に立って、改めて黒子は振り返る。
いまだに黄瀬が腕を掴んだままだった。相変わらずぎゅうぎゅうと骨が軋むほどの力を込め、そして光の加減では金色に見える色素の薄い目は黒子を凝視し続ける。
当然、これでは用を足すことができない。
黒子が目を大きく開いてじっと見上げると、黄瀬は笑って手を離した。
少し安心したように黒子はため息をつく。ようやく開放された腕に血を通わせるように軽く振って、黒子はズボンのチャックを下げようとした。
しかし後ろに立った黄瀬が何をするわけでもなく、黒子を見つめたまま突っ立っているのに気づいて、その手も止まった。

「黄瀬君は、しないんですか?」

不思議に思って尋ねると、頷かれる。

「オレ別にトイレしたくないっスから」
「え・・・?じゃあ何で・・・」
「黒子っちがトイレに行くって言うから」
「・・・馬鹿ですか」

思わず黒子は顔をしかめた。
用もないのに黄瀬はついて来たらしい。その主張は妙だとは思ったが、照れたように笑う黄瀬を見ると何も言うことができなくなった。
常日頃から黒子に対して「大好き、好き。黒子っちとずっと一緒にいたい」と公言し、他の部員たちの冷やかしの的になっている黄瀬だ。
黒子の呆れたようなため息にも、最早胸を張ってくるようになった黄瀬には付ける薬などなく、諦める以外に何ができるだろう。

しかし黄瀬のことは一旦考えないようにして、再びトイレに向き直っても、やはり黒子はそれ以上手を動かすことができなかった。
後ろからじっとこちらの一挙一動を見てくる相手の前で用を足すことなどできるわけがない。
黒子は深くため息をついて振り返り「見ないでください」と頼んだ。

「用が無いのでしたら、トイレの外で待っていてもらえますか」
「良いじゃないっスか。別に」
「気になるんです」

こちらのことを理解してくれない黄瀬を、黒子は追い出そうとする。
しかしその手を簡単に横にどけると、むしろ黄瀬は体を寄せてきた。

「早く出さないと、授業始まっちゃうっスよ」

そしてあろうことか黒子の脇から手を入れると、ズボンに手を掛けチャックを下ろし始めた。
黒子はびっくりして、咄嗟に体を捩ろうとしたが、がっちりと脇で固められているため左右に揺れることしかできない。
慌てて回りを見回すと、トイレに居た他の生徒はいなくなっていた。
・・・・もし見られたらと思い、黒子はホッとする。
しかしそれも良かったのか分からない。
その間にも、黄瀬の手は我が物顔で衣類を引っ張っていた。
焦らすようにジリジリとチャックが下りていくのに、黒子の目じりは吊り上っていく。

「な・・・にをするんですか!?やめてくださいっ」
「黒子っちがモタモタしてるから手伝ってあげるだけっスよ。オレ、次移動教室だし。急がないと」
「自分でできます!離してください!」

黒子の願いも虚しく、黄瀬の手はあっという間にチャックを下ろすと黒子のズボンを押し下げた。パンツにも手を入れようとするのを必死に止めようと、黒子は慌ててパンツを押さえようとしたが、両手を絡め取られてどかされる。
器用にも片手だけで黒子の臀部をまろび出させると、黄瀬がふっふっ、と小さく笑った。
首筋に当たる息に、黒子の顔が赤くなる。

「ふざけるのも、いい加減に」

悪戯にしても、我慢の限界を超えていた。黒子はこれまでこんな目に遭わされたことなど一度も無い。
黄瀬にとっては単なるおふざけなのかもしれないが、黒子には到底許せる範囲ではなかった。
あまりにも酷い嫌がらせに身を震わせる黒子に、しかし黄瀬は笑顔のまま、排泄を促すように陰部を転がす。
黄瀬の指の腹で棹を擦られて、思わず声が漏れかけて、黒子は唇をかみ締める。


「ホラ黒子っち。我慢は良くないっスよ」
「い・・・あ・・・やっ」
「早くしないと、授業も・・・」

黄瀬が言葉を言いかけた丁度その時、廊下の方からチャイムの音が微かに聞こえてきた。
トイレに他の生徒の姿がなくなったのも、授業がもう始まるからに違いなかった。
「ああ、ほら」と黄瀬がため息をつく。クスクスと笑うような息も漏らしながら。

「授業始まっちゃったっスよ」
「出ません。もうやめます。はやく、離し」
「だぁめ。オレ、黒子っちが出すの見たいっス」

耳元で熱い息を吹きつけられて背筋がゾクリとする。しかし、強請られても尿意など引っ込んでしまった。元々そこまでキツイ程我慢していたわけではないのだ。

「無理、です・・・!もう授業に戻るので、離してください」

黒子が涙目になりながら暴れる。黄瀬はそんな抵抗を、笑いながら受け止めた。
不意に顔を寄せると、背後から黒子の耳の後ろに唇を寄せて、内緒話をするように囁いた。

「ところでさ。黒子っちさっき、何でオレから逃げようとしたの?」

逃げようとしているとすれば、今の状況もそうだ。
だが黄瀬の口ぶりは違うものを指しているらしい。
何の事だと黒子が困惑の表情を浮かべると、まるでそれを読み取ったかのように、「ホラ。教室の前で」と耳元の声が思い出させる。
思い返してみても、果たしてどれなのかは分からない。だが・・・

「ひょっと、して、トイレに行こうとしたの、断ったことですか?」

言ってはみたが、果たして逃げようとしただろうかと思うと、判断に迷う。
逃げるも何も、トイレに一人で行こうとしただけだ。
しかし黄瀬はそれだと頷く。

「黒子っちはオレとずっと一緒に居ないと駄目なんスよ。ただでさえクラスも違うのに、休み時間まで会えないなんてあっちゃいけない事っス。・・・いい加減分かってくれてると思ったっスけど」
「そんな無茶な・・・、っ!?」

黒子が呆れて、思わず口をポカリと開いたとき、黄瀬の指が陰部から離れた。
代わりに、まるで黒子の膀胱を刺激するかのように腹の下に手を当て力を込めて押し始める。外側から膨れた膀胱を思い知らされるように刺激されて、そこまでキツクはなかった尿意がせり上がってくる。
とっさに堪えたが、マズいと黒子は思った。まだ余裕があるかと思ったが、思っていた以上に尿意は溜まっていたのだ。
黄瀬が押すたびに走る鈍い痛みと、大きな手が腹の上を撫でる感触に表面が粟立つ。
恐怖からではなく、ガクガクと体を震わせ始めた黒子に、薄っすら黄瀬は笑った。

「だから、これはお仕置きっス」
「やっ・・・やめてください」

黒子はめちゃくちゃに暴れだした。背後から覆いかぶさるような黄瀬の体に何度も体当たりして、捕らえる囲いに僅かにでも綻びを作ろうと躍起になる。
しかし黄瀬の拘束は解けないし、黒子の声は段々と弱々しくなっていく。
やにわに、腹を押していた黄瀬の手が局部に戻る。先端をぎゅうと潰されて、覚悟も何もしていなかった黒子は悲鳴を上げ、体をしならせた。
その指がゆっくりと離れ、痛みが遠のいた。黒子の下肢が熱くなるような感覚があった。黒子が目を閉じる。
目を閉じたところで、自分の今の状態は聴覚だけでも否が応にも確認させられたが。

黄瀬も耳元で喜悦の声を漏らし、無慈悲にも黒子に知らしめる。

「黒子っち、今漏らしてるっスよ。・・・ふふっ、かわいい」

捕まえていた手を離しても、抵抗する気の失せた黒子は身動き一つしなかったので、黄瀬は自由になった片腕で黒子の頭を撫でる。
ブルブル震えながら黒子が体を縮めているのを愛おしそうに眺めて、柔らかな頬に口付けを一つ。そうこうしている間に排泄は終わって、黄瀬は手を離した。

「はい。よく頑張ったっスね」

解放された黒子は、黄瀬から離れるように一歩前に進んで、便器に激突しそうになって黄瀬に引っ張られた。

「大丈夫っスか?」


優しくかけられた言葉に我に返った黒子は、腕を振りほどく。太々しく笑うかんばせを一睨みすると、黒子は扉の方へ駆け出した。
すぐに距離をつめられて、ドアに手を掛けた辺りで捕まってしまったのだが。
黒子の手首を掴んだ黄瀬が口の端を上げて笑っている。

「だから。逃げちゃ駄目って言ったじゃないっスか。今度は何して欲しいっスか?」
「黄瀬くんっ!?」
「黒子っち」


黄瀬が嫣然と微笑みながら、黒子の白い手首を撫で付ける。


「オレ、黒子っちが逃げないなら、何でもしてあげるっスよ」

だから、と
手の中にある小さな手の甲を、慈しむように、滑らかな表面から指の間まで擽って、指先を軽く口に含んだ。

「オレから逃げないでね。じゃないと、何するか分かんないっスよ」


by ヒトデ (09/08/19)

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