彼の想いに蝕まれていく | |||||
黄瀬が花を抱えて歩いている。 つい先ほど摘み取ったかのような、腕いっぱいの瑞々しい花びら。オレンジや黄色を基本にした、小さな花が歩く早さに合わせて上下に揺れる。 モデルの彼が持つと撮影の一環なのかと思うほど、その姿は様になっていた。 ノブを回すなり長い足で扉を跳ね除ける乱暴な仕草も、どこか洗練されて見えるのだから不思議だ。そうして家に戻ってきた彼は、鼻歌を歌いながら廊下を闊歩し、リビングへやって来る。 「黒子っち、ただいま」 呼びかけたのは、家でおとなしく待っていた人物に対して。 その人物に、黄瀬は買ってきた花を見せて「綺麗でしょ?黒子っちのために買ってきたっスよ」と甘く微笑む。 その言葉を彼に告げられるためなら、どんなに金を積んでもいいと思う女性は多いだろう。きっとこの光景をファンが見ていれば、相手は嫉妬で呪い殺されてしまうに違いない。 黄瀬に選ばれた幸福な人物は、しかし全く、その美しい贈り物を喜びはしなかった。 無関心に花を眺めた後、視線は窓の外へと流れる。 悲しそうな目で黒子の一挙一動を見つめていた黄瀬は、花を机の上に放って、彼の座るソファーに腰掛けた。こちらを見ようとはしない人物の肩を抱き寄せて、頬にキスするくらい顔を寄せる。 「どうしたっスか?このお花、気に入らない?」 ならば用はないのだと、花に手を伸ばすとぐしゃりと潰した。 ガラス製の机に無残に花弁を散らす花を、黒子は疲れたような目で見つめる。 「そういうわけでは、ありません」 「黒子っちが喜ぶように買ってきたのに」 「・・・・すみません」 あっさりと謝罪する。そんな彼を、愛おし気に黄瀬は撫でる。良いっスよ。黒子っちさえいてくれれば、俺は何だって良いっスから。 熱で浮ついたような唇はごく自然に相手に押し付けられる。ちゅ、ちゅ、とあちこちに音を立てながら場所を変えて口付けていくのを、黒子はぼんやりとした目で受けていた。 やがて口付けが首元にまで及んだ時、ことさら赤く痕が残るほど吸い付いて、黄瀬はあっさりと身を離した。 白い首筋に、散った花びらよりも赤い痕が残ったのを嬉しそうに指でなぞって、口元を緩める。 「あ・・と、いけない。早くご飯の用意しないといけないっスね」 黄瀬は満足すると立ち上がり、食事の用意を始めた。楽しそうに鼻歌を歌いながらエプロンをつける。台所に立つ後姿をしばらく、泥のような目で黒子は見ていたが、ゆっくりと立ち上がった。 カチャリと微かな音がして黄瀬が振り返ると、黒子は食事の用意を手伝うつもりのようで、引き出しの中からお箸の用意を始めた。 「ふふ。黒子っちは待ってて良いっスよ」 そうは言いながら、黄瀬はとても嬉しそうに目を細めていた。 箸をきちんと二つ並べると、黒子は一人で席に着く。食事の用意ができるまで結構な時間がかかるが、黒子は構わないようだ。 しばらくすると簡単な食事を用意した黄瀬がやって来て、彼の前に食器を置いた。 おとなしく待っていた黒子の頭をなでて、黄瀬は褒める。 「『正解』っスよ。・・・よくできました」 飲み物を用意すれば食事が始まる。 殆どは一方的に黄瀬が話しかけるだけだ。それに、時折黒子が相槌を打つ。 ごく普通の食事の風景だが、黒子が返事をするたびに花が咲くように笑う黄瀬の様子からは、とても幸せな食卓に見えた。 やがて二人とも食事が終わると、食器はそのままにしてソファーに戻る。 「後で片付けるから、こっちおいでよ」 黄瀬が黒子に手を差し伸べると、少しの躊躇いを見せながら黒子が従う。 目の前に来て、差し出された手に僅かに触れた瞬間、強い力で引かれて黄瀬の上に転がる。 そのままじっとしていると、黄瀬が首元に顔を埋めながら囁いた。 「最近黒子っちが、昔の黒子っちに戻ってきて嬉しいっス」 優しく、明るい色の髪の毛を解かすように撫でながら口遊んだ。黒子は黙ってそれを受けている。 その間にも黄瀬の独白は続いた。 「黒子っちがおかしくなっちゃった時はどうしようかと思ったスけど・・・元に戻ってくれて、本当に良かった」 黒子は、ただ黙って彼の緩やかな愛撫を受け入れていた。 その視線の先には先ほど黄瀬が買ってきた花がある。机の上に横たわったまま、二人を見上げるオレンジ色の花は、買ってきた当初よりもぐったりしているように見える。 先ほどは見向きもしなかったのに、打ち捨てられたその花が妙に気になって、黒子は手を伸ばした。 黒子が散った花びらの感触を楽しむように触れていることに気づいて、黄瀬は微笑む。 「・・・気に入ってくれた?」 花弁のビロードにも似た手触りに誘われるように、黒子が頷く。 ほんのりと笑顔を乗せると、黄瀬もにっこりと微笑み返した。 「じゃあ、この花は花瓶に生けとくっスね」 黒子が頷くと、「ちょっと花瓶を持ってくるから待っててね」と黄瀬は頬に優しくキスを送って立ち上がる。 たしか使わなくなった花瓶が物置においてあるはずだとぼやきながら。 ようやく埃まみれの白い陶器の花瓶を見つけ出して、軽く掃いながら黄瀬が戻ると、黒子はまだ花びらと戯れていた。 緩くくぼんだ花びらの揺り篭を揺らすように突いている。しかしその目は散った花ではなく、どこか遠くを見ているようだった。 足音高く戻ってきた黄瀬は黒子の手を掴む。 その力強さに黒子はひくり、と喉を鳴らした。我に返るなり思わず、ついと目を反らす黒子を、額を寄せた黄瀬が見つめる。 「いま何考えてたっスか?」 「・・・なにも・・・」 「嘘。オレの目はごまかせないっスよ。この花に、何を思い出したっスか?」 黄瀬の手が横に伸びて、オレンジの花を摘む。 そのままぐちゃりと手の中で潰して、ひとつ。またひとつ。黄瀬の手が次々に花を台無しにしていく。 戸惑う黒子を尻目に、黄瀬は微笑んだ。 「黒子っちが、昔に戻ることは良いことっスよ。だから、少しでも思い出したことがあるなら、言って欲しいっス」 その、優しい笑顔に誘われるように 黒子は薄く頷くと、口ごもりながら口にした。 「バスケ・・・がしたいです」 オレンジの花が、特別似ていたわけではない。ただ、花を揺らす指先が上下する姿はかつて日常であった光景を呼び寄せた。 この指が硬いボールを操っていたのが、ひどく昔のことに思えて、じわりと黒子の目に涙が溜まる。 黄瀬はそれに気づいて、ポケットからハンカチを取り出した。 丁寧に黒子の目元を拭うと、深く溜息をつく。 「黒子っち、それは『ハズレ』っス」 出した答えは、硬い声音。 絶望するかのように目を見開いてから、黒子が悲しげに目を伏せる。今度は目蓋の上に口付けながら、黄瀬は口ずさむ。 「まだ駄目っスね。昔の黒子っちは、そんな事言わなかったっスよ」 「そんな、こと」 黒子は昔からバスケが好きだ。途中から参加した黄瀬よりも。もっとずっと前からバスケが好きだった。 しかしそれを口にしようとして、黒子はくちびるを引き結ぶ。 何か言った?と黄瀬が微笑んだからだ。 強い力で抱き寄せると、凍りついた黒子の体を溶きほぐすように背中を撫でてやりながら 教えるように耳元で囁く。 「昔の黒子っちは。そんなこと言わなかったっスよ。黒子っちはいつでも一番にオレを選んでくれる。バスケよりもオレを取ってくれたっスもん」 「・・・・・・・」 「もう治ったかと思ったスけど・・・まだ駄目だったっスね」 黙り込んだ黒子のつむじにキスをしながら、至極残念そうに黄瀬は言った。 その言葉に、じわじわと黒子の目の光も失われていく。しかし最後の希望を持って、愛おし気に頬ずりしている黄瀬の服をぎゅっと握り締めて告げた。 「黄瀬くんを取らないわけじゃ、ないんです。ほんの少しで良いから、バスケがしたい。・・・そうだ。黄瀬君とバスケをさせてください」 「え?黒子っち、オレとバスケしたいんスか」 途端に相好を崩す黄瀬。 声も顔も一転して蕩けるように変えた彼は、黒子の腰に手を回して折れるほどに身を寄せた。 「かわいいなあ、黒子っち」 かわいい、かわいいと黄瀬からのキスは激しさを増す。首筋を黄瀬の柔らかな髪が通り過ぎるのがくすぐったくて、小さく黒子は身をよじった。 でも駄目っスよ 明るい声のまま黄瀬は否定する。 「お外に出ちゃだめって言ったっスよね?記憶を失う前に黒子っちは、とっても怖い奴に付けねらわれてたっス。お外は危ないっスよ」 黒子は、完全に無表情だった。希望を打ち砕かれたことに落胆しながら、もはやそれを悲しむ力も残されていない。 黄瀬には見えない場所で彼は、こんな生活を始めることになった日のことを思い出していた。 ある日 目を覚ました黒子はなぜか黄瀬の家にいた。黒子には前後の記憶はない。ただ、黄瀬は黒子が倒れたと言った。 お世話になったことに礼を言って、帰ろうとした黒子を押しとどめて、黄瀬は言ったのだ。 『黒子っちは記憶を失って、別人になっちゃったっス』 『オレが黒子っちを治してあげるね』 『とにかくお外には怖い奴がいるから出ちゃ駄目っスよ』 『早く元の黒子っちに戻ってね』 黒子にとって支離滅裂な言葉の数々はしかし、黄瀬の手により嵌められた手錠により、拒否することは許されなかった。 どんなに叫ぼうとも、訴えても、泣いても、黄瀬は手錠の拘束を外すことはしなかった。 優しげな笑顔には困惑を乗せて「これは治療っスよ」と教える。 『黒子っちは覚えてないかもしれないっスけど、オレと黒子っちは恋人同士だったっス』 逃げることはできないが、せめて黄瀬とは会話をしたくないと身を強張らせる黒子に、眉を下げながら あの頃はまだ黄瀬が近づけば、手負いの獣のように身構えていた。そんな黒子を刺激しないように、両手を挙げて見せながら 『オレは黒子っちに元に戻って欲しいだけっス。恋人だった頃に・・・』 そんな筈がない。 黒子の記憶は何もおかしな事なんてなかった。 何もかも、思い出すことが出来る。帝光中学にいたこと。そこでレギュラーの座を勝ち取れた日。出会った人々。キセキの世代と呼ばれるようになったこと。黄瀬にはじめて名前を覚えられた時 そして、黄瀬からの告白を断って、誠凛高校へ進学したこと。火神や先輩たちとバスケをした日々。 大切な記憶は、今も黒子の擦り切れた神経を暖めてくれる。もう夢だったのではないかと思えるほど、それは輝きに満ちていた。 そう、夢だったのではないか。 本当には黄瀬の言う通り、自分は事故にあって記憶を失ってしまい、幸せな夢を現実だと思い込んでいるのかもしれない。 そう思うくらいに、黄瀬の態度は真実味にあふれていた。 自分を恋人だと言う彼の姿は本当に誠実で、彼の手を拒む度に悲しみに揺れる眼差しは、騙されまいと神経を研ぎ澄ます黒子でさえ胸が痛くなるほど憐れさを誘った。 夜、黒子のそばにいたいと擦り寄ってくる黄瀬は庇護欲をそそられる。 今の黒子にはわけがわからなかった。 何が現実で、嘘なのか しかしとにかく、外に出たかった。今の黒子の望みはそれだけだ。 目覚めて以来黄瀬は外は怖いからと言って外へは出してくれない。 手錠はとうに無くなったが、内側だけでなく外からも、また鍵は扉だけでなく全ての窓に掛けられていた。 昼間学校へ行く黄瀬を見送って、彼が帰ってくるのをただ待つだけの日々 外に出れば何かが起きるとは思わない。ただ、この家の中に篭るのは辛いのだ。 それにもしもバスケができるなら、夢のような記憶が現実になる気がした。いいやただ、あのボールの感触を思い出したいだけなのかもしれない。 しかしまた、駄目だった。 黒子は黄瀬にすがりついたまま、呆然と虚空を眺めている。力を失った黒子の体を撫でながら、黄瀬は微笑んだ。 「早くもとに戻ってね黒子っち」 黒子には、その言葉が全く違うように聞こえる by ヒトデ (09/09/01) |
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