籠庭(かごにわ)


恋い慕うこの心が報われる日が来たとして。
でも、だからと言って幸せになるとは限らない。
一時は幸せであっても、半永久的にそれが続くとは限らないのだ。
そんなことは知っていた。だから、覚悟を持って、自分は彼の手を取ったのだ。


黒子テツヤと黄瀬涼太が同性ながらに互いを恋い想い、恋人という間柄になったのは高校一年の夏の終わりだった。
それから現在、大学四年生になるまで二人の関係は一度も壊れることはなく、また揺らぐこともなかった。
だが、その歳月の中、二人が幸せであったかと言うと難しい。
恐らく、黒子は双眸に悲痛な色を浮かべて沈黙するだろうし、黄瀬は真っ向から怒気を秘めて否やと答えるだろう。
二人の想いは確かに揺らぐことはなかった。
年を重ねるごとに幼さが抜け、精悍な顔立ちになった黄瀬は大学生になった今もモデルを続けていた。アルバイトのような気易さでそれを続けていたにもかかわらず、人気ゆえに彼は全国紙の雑誌の表紙を幾度も飾ったことがある。その人気税の一種として女性からのお声掛けは多かったが、当の本人の想いはいつだって一人にしか向いていなかった。そして、その想いは一種の狂気に属するほど過重的な偏愛によるものだった。
揺らぐことのなかった関係が、それでも幸せでなかった原因はそこにあった。
黒子が知っている、お調子者で、どこか飄逸とした雰囲気の黄瀬は高校二年の夏で消え失せた。
その夏、黄瀬は綺麗な雌黄の瞳を不安げに揺らして言った。

『最近、黒子っちのこと、上手く見つけられないんだ……見えなくなったら、どうしよう……』

低く耳触りの好い声は震えていた。その音に潜んでいたのは明らかな恐怖だった。黄瀬の弱々しい姿を見るのは初めてで、黒子は困惑に目を瞬かせて彼を宥めた。

『黄瀬君がボク見つけられなくても、ボクが見えなくなっても、ボクがキミの傍にいます』

ただの慰めの言葉ではなく、黒子の真意だった。それが伝わったのか、その場は治まったが、黄瀬の不安は決して消えることはなかった。
不安が恐怖に完全に侵食されたのは、高校三年の春。
その頃から、黄瀬は黒子の口から自分が知らないことを聞くのを酷く嫌がるようになった。ほろりほろりと涙を零して、そんなこと聞きたくない、あんな奴の話をしないで、と哀願するのだ。
そして、丁度その頃から、黄瀬の感情の起伏が激しくなった。
黒子が特定のチームメイトと一緒にいると、力尽くで引き離すのはほぼ当たり前で。そんな日は必ず黄瀬の部屋が荒れた。暴れて気が済み、正気に戻った後は骨を砕くきかと問いただしたくなるような怪力で黒子の細身を朝まで抱きしめる。そうして、藍の空が陽に白く焼かれ始めるまで、彼は悲嘆な声で謝辞を繰り返すのだ。
そんな状態をずっと見ていた黒子は、とうとうインターハイの予選が始まる前に部活を辞めた。彼の言動を見て取れば、どう考えても原因は自分にあるように感じたからだ。
だが、黒子はだからと言って何をするでもなかった。ただ、バスケの為に空けていた時間も黄瀬の傍にいたと言うだけだった。
チームメイトの一人はそのことに対して苦言じみた心配をしたが、黒子はその現状に惜しむものなどなかった。バスケは好きだが、黄瀬以上に大事ではなかったから。
視線も意識も活字に向いていても、黒子がただ傍にいると言う絶大な安心感に、あれほど激しかった黄瀬の感情の起伏が鳴りを潜めた。
時々は情緒が暴れたが、それでも問題はなかった。
問題は、高校の卒業を間近に控えた頃から、起き始めた。
二人とも家庭などの諸事情により一人暮らしをしていたため、大学からは同居することにした。特になりたいものも学びたいものも決まってなかった黄瀬が黒子に合わせた結果。大学も同じところに決まった。
大学からほど近いマンションを借りて、冬休みを使い引越しの作業をする。全ての荷物を部屋に運び入れ、使い勝手のいいように整理する。
綺麗に片付いた新居を前に上機嫌な黄瀬がまずやったことは、黒子の携帯の破壊だった。内臓データーバンクも、カードも、何もかもを粉砕するがごとくに殴打した。瓦礫のゴミとなったそれを燃えないゴミに放り込んだ黄瀬は、黒子に新しい携帯を渡した。
メモリーに刻まれていたのは、黄瀬の携帯番号と部屋の電話番号、そして黒子の両親の携帯番号だった。

『他の誰にも、ケーバン教えちゃダメっスよ』

そう言って黄瀬は次に黒子の部屋に置いてあるアルバムをすべて撤去した。勿論、二カ月後に渡される高校のアルバムも一緒に。棄てることは流石に良心が咎めたのか、それとも、他に彼なりの理由があったのかは知らないが、アルバムは全て黄瀬が保管している。
新居は、黄瀬と黒子だけの領域だった。親を例外として、他の何者もそこに侵入することを黄瀬は許さなかった。無粋な思い出も、黒子の意識を奪う電話の音も、許されることはなかった。
束縛は確かに強かったが、理不尽だと感じるものは余りなかった。飲み会に行くな、と言われても黒子は元々そんなものに出席するつもりがないのだから理不尽だと感じようがない。これでもし、黄瀬が一人飲み会に出席して黒子を放置すると言うのなら話は別だったが、そんなことは一度もなかった。
本当に、ずっと、黄瀬は黒子しか見ていなかった。偏執的で、過重的な愛情をずっと黒子にだけ注いできたのだ。それは時として、黒子を二人だけの領域に軟禁するように閉じ込めてしまうものであったけれど。その時の黒子はまだその問いに苦笑しながらも、そうですね、と肯定出来た。そうですね、幸せですよ、と。
事態が急展開したのは、大学二年の頃。
バスケのサークルの試合で来校していた火神と、黒子たちが再会してから。
再会は決して穏便なものではなかった。黄瀬も火神も互いに互いを毛嫌いして苦言悪態を吐いていた。威嚇しあうように別れる間際、火神は黒子にアドレスや番号を聞いたが、黄瀬の願いを覚えていた為結局教えなかった。
それを間近で聞いていたはずの黄瀬は、それでも黒子への不信を募らせていった。
黄瀬はいつも黒子と一緒に大学に行って、一緒に帰るわけではない。モデルの仕事が入れば大学には行けないし、黒子は一人で行って一人で帰ってくる。
だからこそ、黄瀬はモデルを続けるにあたって、絶対的に守ると決めたことがあった。午後七時までには家に帰ること。
それは勿論、恋人の行動を束縛し、不貞を許さぬ為であったが、当の黒子はそんなことは知らない。
黄瀬がモデルの仕事で大学を休む日は、邪魔されることなく思う存分読書が出来ると大学の目移りしそうな図書館に入り浸った。時間を忘れて活字を追えば、気が付いた時には大概長針が七の数字を指している。それから急いで買い物を済ませてマンションに帰ると、当然、黄瀬は零下の心火に表情を凍らせ、黒子を威圧するのだ。

『何処に行っていたんスか?』

そう、耳が痛くなるような低い声音で問い質すのだ。それも、火神と再会するまでは、だったが。
あれから様相は変化し始めた。黄瀬は細身をと抱き捕え、逃げられぬようにしてから耳を凍りつかせる様に問い質すようになった。

『何処にいたんスか、誰といたんスか―――ねえ、黒子っち、何処で、誰と、会ってたんスか、ねえ、何を話してたんスかっ?』

昏い光を険呑に煌めかせる双眸で、ベビーブルーの深奥を射るように、黄瀬は問い質し。けれど、引き攣る咽喉が答えを出さないと気づくや、彼は次いでこう言うようになった。

『まさか、……ねえ、まさか、逃げようとか、思ってんじゃねぇっスか?オレから、逃げようとか、思ってんじゃあ、ねぇのかっ?』

その言葉がよく黄瀬の舌に乗るようになってから、黒子は部屋に閉じ込められることが多くなった。
今までも、大学に行かずにマンションにいて欲しい、そう願われて叶えていたことはある。だが、それはあくまでも黒子の意思に因るものが大きかった。鍵も、携帯も、財布も、カードも全て奪われてまでマンションに閉じ込められたことなど、その時まではなかったのだ。
そんな日々を過ごしながらも、黄瀬の機嫌は黒子が傍にいれば大抵は右肩上がり、下がることはなかった。火神ともそれ以来会うことはなく、黄瀬が落ち着き始めた大学三年の梅雨、彼は何を思ったのか株をやり始めた。
そしてその頃から、黄瀬は威嚇目的の暴力を黒子に振うようになった。いや、詳しく言うなら、黒子に暴力を振うのではなく、その間近の物品にだ。
暴力が、いよいよ黒子に加えられ始めたのが、大学四年生に上がった時。そう、現在だ。





「では、もう一度確認しますが……」

「何度確認してもらっても、それの答えは変わりませんよ」

何度目かの、同じ質問に黒子は鬱陶しいと言わんばかりの溜息交じりの言葉を返した。
真っ白い、部屋。外科診察のうちの一室であるというのに、今目の前にいるのは外科や内科の医師ではない。精神科医である。
ズキリズキリと足から這いあがってくる痛みと、終わりの見えない応酬に黒子はいい加減嫌気が差し始めていた。
だが、若年の精神科医は熱心に言葉を繰り返す。

「黒子テツヤさん、アナタのその両脚は、本当に、自分で切ったものなのですか?」

「同じ言葉を繰り返すのは、好きじゃありません」

「……、では、なぜ、両足の腱を切ったのですか?」

白衣を着こんだ精神科医は、黒子の言葉に目尻を引き攣らせ、少しばかり険を含ませ始めた。

「そんなことは、あなたには関係ないと思います。ボクは足の治療に来ただけですよ」

これ以上此処にいても埒が明かないだろう。
黒子は自分が乗っている車椅子を動かし、精神科医に背を向ける。背後からは慌てて足止めの声が掛かるが、そんなものに従ってやる義理はない。
扉に差し掛かる前に、精神科医が車椅子のグリップを握りその足を止めてしまう。
腱が断ち切られた足が痛い。左足が重い。聞きたくもない言葉を聞かされ、言いたくもないことを言わされる。早くここを立ち去りたいのに、見栄張りな精神科医が出張ってこの場に押し留められる。何もかもが不愉快で堪らないと黒子は心の内で歯軋りする。
辛辣な毒を吐こうと口を開いた時、扉が開いた。

「何してんスか?」

全開にした扉に手を掛けたまま、黄瀬は精神科医を睥睨する。眼差しに籠められた苛烈な心火に怯え、精神科医は反射的に車椅子のグリップを手放した。
黄瀬はそれを認め、黒子の前に膝を折る。車輪の上に置かれていた小さな手を恭しく取り、丁寧な仕草で擦過傷がないか厳しい表情のままで調べていた。

「平気です」

掌とはいえ、凝視されるのが居た堪れなくて黒子は取られた掌で拳を作る。だが、黄瀬はそれを許さず、また拳を開いて丹念に調べる。そうして、自らが大丈夫だと判断してから黒子の手を解放した。
自由が与えられた両手を握りしめ、黒子は項垂れたように膝の上のそれを見つめ続けた。
視界の端では黄瀬が立ち上がったことが分かった。
彼の次の言葉がどんなものか、黒子は知っていた。


車窓の向こうに流れる景色をぼうっと見詰めていると、頬を撫でられた。前触れのない接触だったが黒子は特に驚くことなく、事故りますよ、と運転手にそれだけを返した。

「寝てるかと思ったっス」

「起きてます」

付き合い始めの頃よりも痩けた頬を撫でた指は直ぐ離れ、狭い車内には沈黙が流れる。

「病院、変えるんですか?」

「ん、だって、その方がいいでしょ。あの医者ウザかったし。あんな医者がいるところ、行きたくないっスもん」

結局あの後、精神科医のプライドを木っ端微塵にするような辛辣な言葉を浴びせ、黄瀬は病院の責任者を呼びだした。
黒子は黄瀬の言葉など聞いていたくなかったので、待合室で待たせてもらった。勿論、誰かに話しかけられても無視しろ、誰のことも見るな、その場から決して動くな、身に刻み込むような鋭利な声音でそんなことを言い含められた。
待合室に姿を見せた時、真っ先に薬を貰った黄瀬の手に白い封筒があったから、そういうことだと黒子も予想していた。
薄暗い山道を抜ければ、小さな村に出る。更にその奥に入っていけば、大きな門が見え始めた。
黄瀬の指で門を開けば、広がるのは真新しい洋館。黒い車が敷地内に入ると、門はそれを感知して直ぐに締まる。
車を車庫に納めた黄瀬は何時ものように、少し待っていて、と言い置いて玄関方へと向かう。
その背を見詰め、黒子は膝を撫でる。足の指に力を込めて見ても、籠っている応えがない。瞼を閉じ、細く息を吐き出した時、窓が叩かれた。いつの間にか戻って来ていた黄瀬の手によって助手席の扉が開かれた。

「大人しく待ってたスか?」

「ロックが掛かってて、此方からは開けられないじゃないですか、どうせ…」

「ああ、そうっスよね」

黄瀬は朗らかに笑い、黒子の痩躯を抱き上げた。シャン、とどこかで瀟洒な音が鳴る。
足早に向かうは勿論、洋館の入り口。
扉が閉ざされる重々しい音。落ちる施錠の音。歩く度に鳴る鈴のような、音。
それらの音を聞いて黄瀬は上機嫌に黒子を抱き上げたまま洋館の中央へと向かう。
黄瀬の肩にしがみついて、流れていく廊下を見詰める。田舎とはいえ、結構な坪数だ。そして、これだけ立派な洋館とそれを囲む高セキュリティの門まで建てたのだ。随分と値が張ったことだろう。
そんなことを考えて、黄瀬が一年ほど前から株のことを思い出す。その時から、この類の物件を買おうとしていたのかと考えた時期があった。けれど、今の黒子は違うと頭を振る。
違う。一年前の株を始めたころじゃない。モデルのバイトを高校時代以上に引き受け始めた、大学二年の梅雨からだと。
多分、火神に再会してから、黄瀬はずっとそう言う計画を練っていた。そういうものを欲していた。
例えば、黄瀬にしか開けられない、不可侵的な二人だけの領域、箱庭。
けれど、黄瀬は、箱庭を手に入れても、黒子が逃げる心配をした。だから、足の腱を切った。
黒子は彼を犯罪者にするつもりがなかったので、自分が切ったことにしたが、それが更に災いした。精神科を受診して自分から逃げる気なのかと、黄瀬は考え始めた。
そうして、大学には退学届を出し。二人で此処に籠っている。
株やモデルの仕事料が溜まりに溜まっているので、あと半世紀は遊んで暮らせると黄瀬は言っていた。それでもまだ時々パソコンの前を陣取っている辺り、株で資金を集め続けているらしい。
黄瀬はずっとここで、二人だけで暮らしていくのだと、よく言う。

「ずーと、此処で一緒に暮らそう。二人だけで」

思考が一致したのか思わせる黄瀬の発言に黒子は肩を振わせた。その肩を大きな手が撫でて、黒子の細身を大切そうに抱きしめる。
そうして、キィと金属の泣く音がして、黒子は一面に敷き詰められた柔らかなクッションの上に沈められた。
視線を彷徨わせれば、見慣れた場所だった。寝るとき、食事をするとき、お風呂に入るとき、そんな諸々のとき以外、黒子は此処にいる。
細い指を伸ばし、黒子は金色の格子をなぞる。その隣の格子も。円を描き等間隔に置かれた格子は天頂で一つに結ばれる。形はまさに鳥籠そのものだった。ただ、その半径は一メートル半。高さは二メートルもある。つまり、これは鳥籠ではないのだ。此処に籠められるのは、黒子なのだから。
黄瀬の大きな手が左の足首を触る度、シャン、シャンと瀟洒な音が鳴く。そこには、三つの金環が絡まったデザインのアンクレットが飾られている。動く度に金環が擦り合わさり、シャン、シャンと鳴く。これは元々黒子が何処にいるか、そして、動いたら分かるようにと着けたものだった。けれど、次第に黄瀬はそれでは逃亡されたら気づけないかもしれないとアンクレットに鎖を繋ぎ始めた。鎖の結わい先は、格子。
今もまた格子に繋がれた左足を見て、黒子は瞳を閉じた。
黄瀬のことは今でも好きだ。けれど、こんな関係を願ったわけではない筈だ。幸せかと尋ねられれば、昔は、と答えたくなる。傍にいられることは、幸福だろう。けれど、やはり、昔の関係性がいい。黄瀬のことをいくら想っても、彼自身が黒子を信じようとしない。想いがすれ違う。これでは幸福だなどとは言えない。
黄瀬は特にそうだろう。彼はもうずっと、黒子の想いなど自分にないと思っている。そうでなければ、二人だけの箱庭を求めるだけで心は治まったはずだ。けれど、実際には治まるどころか、彼の不安は増長するばかりだった。籠檻を用意し、遂には黒子の両足の腱を切断するに至った。

「誰にも邪魔させない、逃がさない」

まるで呪詛の様な言葉が今日も繰り返される。

「ねえ、知ってるっスか、アンクレットの意味」

黒子の細身を抱き締めた黄瀬が咽喉奥で笑う。
(知っていますよ。恋人、それに所有物を暗喩するものでしょう)

「オレのっスよ。黒子っちは、オレのだ」

彼は一度唇をこめかみに落として、籠檻から出ていく。そうして黒子は絶望の音を聞く。軽い、施錠音だ。
黒子の目を奪うものは出来るだけない方がいいと、この敷地内は酷く質素だ。それでも『箱庭』などと言うのだから、この籠檻は差し詰め『籠庭』だろうか。籠一面に敷き詰められたクッションは黒子の体を痛めないようにと敷き詰められているのだから、あながちそれも間違いではないのかもしてない。
けれど、わからない。柔らかなクッションに包まれる此処は籠庭か、施錠までされた此処は籠檻なのか。
確かな事は、幸せなのかという問いには、最早沈黙を返すしかないということ。
(せめて、こんな籠庭に閉じ込められていても、キミがこの心を信じてくれたら、それだけで……)
そんなことを考えて、けれど詮無きことだと黒子は胎児のように丸まって瞳を閉じた。



by 黎 (09/08/11)

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