まどろむ夕闇に


黒子はふと、ノートを取っていた手を止めて、持っているシャーペンを眺めた。
きれいな新品のシャーペンは、窓から降り注ぐ光を反射して白いノートに鮮やかな色を映している。
それを見て微かに顔をほころばせた。幸せな気持ちを抱いた黒子は、再びノートを取る作業を開始する。
なんてことない授業の時間が、1本の文房具のおかげで少し楽しくさせてくれる。



ある日以来、黄瀬と黒子は付き合い始めていた。
黄瀬との新しい関係をおおむね黒子は満足していた。


「黒子っち、大好きっス」

恋人になってからというもの、黄瀬は普段の何もない時でさえ愛の言葉を述べるようになった。
それはまるでこれまで我慢してきた分を一気に清算しようとしているようであり、もしくは素直になりきれずうまく気持ちを言葉にできない黒子の分を補おうとするようだった。

みんながいる前で言う「好き」とは違う。
他の誰かに言う「好き」とはまったく違う。
二人きりの時に手や顔や、体のどこかに触れながらそっと告げられる告白が、はじめのうち黒子は怖かった。

与えられる限りの愛情を注がれる経験など黒子にはなかった。
その上黄瀬がくれる言葉はあまりに甘く、自分に返せるものだとは思えなかった。
黄瀬と黒子は違う。
どこもかしこも綺麗で完璧にできている黄瀬はだれからでも愛されるようにできている。対して影が薄く親でさえ存在を忘れかけている黒子とは、あまりにも違いすぎた。
黒子は、自分の感情が黄瀬に負けているとは思わなかったが、黒子が黄瀬からもらうことをそっくりそのまま返したところで、贈り主の存在の重さと比例して、黒子の方が劣ってしまう気がしていた。
しかし黄瀬はそんな黒子の脅えに気付くはずがなく、黒子への想いを表現し続ける。


付き合いだして初めのころ、黒子は黄瀬との関係を後悔した。
友人という関係を崩したのは黒子の方からだった。
本当にこんな事をして大丈夫だろうか。
自分は黄瀬に返せるものがあるのだろうか。
慣れないこと、知らないことだらけで、不安も大きい。
けれど今、黒子は何とかなるのではないか。と前向きな考えができるようになったのは、ほかでもない黄瀬のおかげだ。

黒子が持っているシャーペンは、黄瀬がくれたものだ。
黄瀬が筆記用具を忘れた時に、黒子はシャーペンを貸した。次の日返してくれるときに、黄瀬は新しいシャーペンをくれたのだ。

「このシャーペン、もらっていいっスか?」

貸していたシャーペンを握りしめながらそう尋ねてくる黄瀬を、黒子は戸惑いながら頷いた。
代わりにくれた筆記用具を、黒子は今、大切に使っている。
こんな些細な積み重ねが、少しずつ黒子の中に巣くっていた不安を溶かしてくれたのだ。


黄瀬を目の前にしていると訳のわからない不安が募るのだが、こうして離れて黄瀬を思う時間、黒子は「そんなに恐れることはないのかもしれない」と思い直す。
自分と黄瀬も同じ気持ちに違いない。
読んできた恋物語の書物では、登場人物たちが客観的にみると無様で、滑稽な行動をしているものが沢山あるが、本人たちにとっては真剣だったのだ。
そろそろ黒子も、恐れるばかりでなくきちんと黄瀬に向き合っていくべきだった。

(今日、黄瀬君に好きだと言い返しましょう。いつも彼の言葉に頷いているだけではなく)

毎日の、あいさつのように注がれる黄瀬からの告白は、毎日のように聞いていながら黒子の心に瑞々しい喜びを生み出した。
その気持ちを今日こそ黄瀬にも返してあげよう。

明日は休日。ちょうど部活も休みになっていて、黒子は家族に今日は黄瀬の家に泊まることを早くから伝えていた。
今日こそは素直になろう、と黒子は決めていたのだ。






待っていると時間は呆れるほど遅く進むものだが、ふと気が付くと部活が終わっていることに黒子は唖然とした。
昼頃までは遅い遅いとだけ思っていたというのに。
二人は、黄瀬に家に来ていた。

「黒子っちの肌、触るの好きっス」

黄瀬に連れられて彼の家に上り込むなり、黒子の手は掬い取られて黄瀬の頬に押し当てられる。
先ほど部活をしたばかりだというのに、黄瀬の肌はもうサラサラしていて、黒子は内心びっくりする。
自分はどうだろうか。まだシャワーを浴びていないので、ベタベタしていることだろう。思わず腰が引けた黒子は、即座に黄瀬に抱き寄せられて身動きできなくなる。

黒子が恥ずかしくてたまらなくなるのは、こうして大事に愛されている場所のどこをとっても、黄瀬と見比べれば見劣りするのはわかりきっていることもある。
黄瀬が愛おしそうに口づけているその腹も、彼が何度かシャツを脱いだ姿を見たことがある黒子は、黄瀬の引き締まったしなやかな体躯には及ばない。
黒子の指を見て「綺麗っス」と褒める彼の指は、それ以上に綺麗に整えられている。
なぜ黄瀬はこんなにくだらない体にこだわるのか不思議だ。
けれど、はっきりと幸せだと分かる時間だ。

黄瀬は見せつけるように黒子と視線を合わせたまま、唇を弧の形に描くと頬にあてていた黒子の手を離した。
先端にある指先を軽く唇でつつく。手の甲、そして滑るようになめらかに黒子の衣類を剥いていき、黒子の前腕にもキスをする。前腕だけではない。上腕、鎖骨の上へと唇の軌跡は登って行き、まるで黒子の体を循環する血液の流れを辿るように、心臓の上まで達した。
まるでその口づけに火でもついているように、黒子の中にはじれったい熱が生まれる。
余計な事を考えていられなくなる。思わずため息のような声が漏れた。
くすぐったいような、もどかしいような熱の塊が、体の奥から上ってきている。

「黄瀬君・・・」

たまらなくなって。思わず黄瀬の首に手を置き、黒子は縋り付いた。しかしその手は優しく外される。
ただ、自分に任せて良いのだと黄瀬の目が言っていた。
いつもであれば黒子もこのまま黄瀬に身を任せるのだが。
しかし今日の黒子は流されるわけにはいかなかった。
一度は外された手を再び肩に置いて、黒子は少し黄瀬の体から離れた。

「あの、黄瀬君。言いたいことがあるのですが・・・」

改まっていうのは恥ずかしい。黒子は目を伏せて、小さく口を動かして言葉を綴った。
黄瀬はピカピカ輝くような笑顔で見つめ返してくる。

「ありがとう黒子っち。俺も大好きっスよ」

その言葉に、黒子は安堵と達成感を得た。
少しあっけないような気がしたが経度の緊張状態にいる黒子にとっては、何もかもがハイスピードに過ぎ去っていくように感じた。

「それで・・・今日は最後までして欲しいんです」

これがもう一つ、黒子が黄瀬に伝えようと心に決めていた言葉だった。
黒子は今日こそ、黄瀬にすべてを曝け出そうと覚悟して、ここにいるのだ。



黄瀬と黒子が付き合って早1か月。
こうして二人きりの時間は取れるだけとって、黄瀬は何度も愛を囁きながらキスをしてくれる。
しかし黄瀬はそれ以上何もしてこなかった。

黄瀬は黒子の体を丁寧に愛撫していく。それこそ足先から髪の毛の先まで、全身くまなく。まるで最高の芸術品を取り扱っているように注意深く入念に。
その度に黒子は天国と地獄をさまよっている。言葉を発すればとんでもない言葉が飛び出してきそうだ。
もっとキスをして欲しい。キスだけでなく、もっと激しくされたたって良い。
黄瀬に触れてもらえるだけで、確かに黒子の心は満たされるのだが、日がたつにつれて、黒子の体は作り変えられてしまったように刺激に貪欲になっていた。
これまで性については淡泊だと思っていた黒子にとっては信じがたい変化である。
けれど、それ以上の関係に踏み込むことも、たしかに怖かった。

(黄瀬君は僕の覚悟が足りないから、こうして慣れさせてくれているんでしょう)

そう思うと、黒子は自分が非常にいくじがない人間のような気がした。
このまま黄瀬に我慢させるわけにはいかない、とも。
だからこそ、いい加減踏み越えなければならない。
初めての経験というだけでなく男同士というインモラルも、黄瀬と一緒であれば怖くないと信じていた。


「・・・」

何を。とは言わなくとも分かると思っていた。たったこれだけの事を言うのに、顔から火が出るような羞恥を感じたが、今度は黒子は黄瀬から目をそらさなかった。
しかし黄瀬は首を傾げる。

「最後まで・・・?ああ。良いんスよ。そんな事はしなくとも」

一瞬意味が分からない。という顔をした後、クスリと笑う黄瀬に、黒子は茫然とする。

「・・・え?」
「むしろダメに決まってるっス。黒子っちが穢れちゃう。本当なら触ることさえ、信じられない暴挙なのに、まして俺の汚い部分を突っ込むなんて」
「・・・は、ぁ?」

かたい面持ちだった黒子の表情が崩れる。
すべて覚悟を決めて、何度も頭の中で想像してきたこの言葉に、まさかそんな反応を返されるとは。
黄瀬は黒子の覚悟を吹き消すように、普段通りに微笑んでいる。

「どうして・・・?」

理解できないものを見て、黄瀬に触れられて昂ぶっていた黒子の体温が、急速に冷えていく。
黒子が持っているのは本の知識しかなく、黄瀬の方が経験は豊富だろうし、任せた方が間違いないに決まっていた。
これまで任せることができて安心もしていた。
しかし、肝心の体の交わりを否定されるとなると、さすがに「おかしい」と感じるしかない。

「汚いって・・・何なんですか」

苛立ったような黒子の声に、黒子の肌をやわやわと吸っていた黄瀬は、急にオロオロしだす。

「黒子っち」
「ボクは構わないって言っているんです。もう覚悟はできました。ゆっくりで、問題はないのですが・・・」

黒子は黄瀬と最後までしたかった。
このまま表面だけ触れられるだけでは我慢できそうにない。
しかし再度粘り強く黒子が言っても、黄瀬は首を縦には振らなかった。

「この話はもうやめにしよ?」
「どうして・・・ボクの・・・魅力が、足りないからですか?」
「んなわけないっスよ!」

黄瀬は驚いたあまりに大きな声を出して、目を丸くした黒子にため息をつく。

「だって、そんなの、想像するだけで罪なんスよ。黒子っちを汚してしまいそうで」
「汚すって・・・意味が分かりません」

黒子は普通の人間だ。
むしろ黄瀬の方が、特別な人間の側ではないのか。どちらにしても綺麗だ汚いだという話になるのはおかしいと黒子は思った。
恋人同士であれば、お互いのことを汚いだとか思うのは変ではないだろうか。
目の端にじわりとにじんだ涙を黄瀬は指で拭って、彼自身も目に涙を浮かべた。

「困るっスよ・・・黒子っちにそんな事言われたらオレ、どうして良いのか分かんないっス」
「どうして、ですか・・・?」
「できるわけがないじゃないスか。黒子っちはオレの世界。オレのすべて。綺麗で綺麗で、絶対に汚しちゃいけない綺麗なもの。ああもう本当に好きっス。愛してるなんて言葉じゃ言い表せないくらい、大好き。好き、好き、だいだいだい好き」

突然始まった賛美に、黒子は茫然とする。
これは、違う。
自分と黄瀬の気持ちは異なっている。

「ボクたち恋人同士ですよね?」

確認しないわけにはいかなかった。
黄瀬はもちろん、と激しく頷いた。

「オレが黒子っちと恋人同士なんておこがましい事だってことはわかってるっス。でもこうしておいたら黒子っちが変な女に手を出されることもないから、ね。最近の女ときたらその気のない男でも薬盛って無理やり跨ってくるって聞くし、勿論黒子っちがそんな事されたら相手の女は死ぬより辛い目に合わせてやるけど、黒子っちが受ける心の傷は女の命じゃ責任とれないし。オレが恋人って言っておいたら、全面的に守ることができるでしょう?」

うやうやしい手つきで黄瀬が黒子の肌を撫でる。上から下へ、何度もなんども。
途中から黄瀬の言葉は黒子の耳を素通りしていった。
日本語のはずなのに、何を言っているのか理解できない。
ただ、黒子っちが望んでいることは全部叶えてあげたいのだけれど。と遣り切れない顔をする黄瀬を見て、本心で言っているのだと分かった。

「黒子っちがどうしてもしたいなら、手を使って出させてあげても良いスけど・・・」

実際に黄瀬が黒子の下肢に手を出してきて、驚いてその手を跳ね除ける。

「そんなの嫌です!」
「でしょう?だからやめておこう?」
「――だったら、もうやめましょう。いっそ。そんなに嫌なのでしたら、こんな関係なんて終わらせて普通の友人に戻りましょう」

黒子には分からない。分からなかったが・・・黄瀬と自分の持っている感情が異なっていること。黄瀬は自分のことが本当は好きではなかったのだとは分かった。
こうして触れることはできるが、決定的な行為を犯したくはないのだと。
口では好きだといくらでも言えるに違いない。そう黒子は感じた。
しかしそう黒子が言った瞬間、視界が何かで覆われた。

「・・・冗談っスよね?」

何が起こったのか分からず凍りついた黒子のひどく近くで黄瀬の声がした。ということは目の前にいるのは黄瀬なのだ。
黒子の目の前が暗くなったのは、目で確認できないほど眼前に黄瀬の顔があるからだった。
しかしそう知って安心するはずの黒子は、それ以上に瞬きすらできないほどの恐怖に顔を凍りつかせた。
誰だ、と問いかけたくなるほど、黄瀬の声は別人だった。

「黒子っち、一体ぜんたいどうしたの?今日はおかしいっスよ本当に。オレに嫉妬して欲しいの?誰か好きな人ができたの?オレが邪魔になったの?オレを捨てるの?」
「え・・・・あ・・・」
「黒子っちがオレをこうしたんスよ?本当だったら遠くから見ているだけで我慢しようと思っていたオレに、近づいてきたのは黒子っちの方からっス」
「ふ・・・」
「もうオレは、黒子っちがいないと生きていけない。黒子っちしかいらない。黒子っちがいなくなるんなら」

黒子の目に、涙が溜まっていく。
なぜか息苦しく、自然と呼吸が浅くなった黒子の口からは呼吸音が漏れた。
この時ようやく黒子は、自分が恐怖心を抱いていることに気付いた。いつからか。足が震えている。
何が怖いのか。
ただ息をして次の黄瀬の言葉を待っている黒子の耳に、黄瀬の言葉が届く。









友人というどこにでもある、変わらないはずの二人の関係が壊れて、新しい関係が構築された。
その瞬間は音もなく、予告もなく、訪れた。
行動を起こしたのは黒子だった。

日直の仕事が手間取り、遅刻は確実だった。
それでも、部活に行こうと足早にを歩いていた黒子は、ふと黄瀬のクラスの前を通り過ぎる時に窓を見た。時折、こうして彼の姿を探すことがある。
遠くから見た彼はいつも、まるで雑誌の切り抜きのように別の世界にいるようだった。
一人でいる時も、誰かと一緒にいて笑い合っている時も、全てがさまになるような男。
既に生徒は教室から出て行って、誰も残っていない。
しかし黒子は、誰もいないはずの教室に人がいるのを見つけた。
それも黄瀬の席で。

思わず足を止めた黒子は、窓のさっしに手をかけるとまじまじと見つめてしまった。
机にうつ伏し丸くなっているのは席の主だった。
まだ部活に行っていなかったのか。
声をかけようとした黒子は、教室に入った。
何となくドアのレールが立てる耳障りな音が、なるべく立たないようにしていることに気付いて、黒子は肩をすくめる。

(寝ていますね・・・)

近くに来て、普段見ることができない黄瀬のうなじを見下ろす。
その世界は真っ赤に熟れた夕陽で染まっている。彼の金色の髪さえも、燃えるようなオレンジに見えた。なんてきれいなんだろう。ため息すら憚られて、黒子は息を飲む。
稜線に溶け消えていく太陽の輝きが、一段と熱を帯びて頬を焼いた。
絹糸のような髪がサラリと揺れたのに、思わず手を伸ばしかけて、自分の指を見てドキリとした。

(起こして、部活に一緒に・・・)

行こうとしていたはずなのに、今の黒子はそれを躊躇っている。
ほとんど衝動的に、黒子は体を屈めると黄瀬に近づいた。
ゆっくりと目を閉じて、唇が温かいものに触れるのを感じた瞬間、黒子は後悔した。

(何をしているんでしょうか)

胸が痛い。こんな姑息な事をしていながら喜ぶ気持ちが暴れている。
急に怖くなった。
黄瀬が起きる前に逃げ出さないといけない。
しかし、黒子が震える足取りで背を向けようとした瞬間、その手を掴む者がいた。
太陽が、沈んだ。


「・・・なんで口にしてくれないっスか?」


どこか夢見るような声が教室に響く。
同時に、黒子と黄瀬は恋人同士になった。







「黒子っち、オレを殺して?」


そして今、この黄瀬の言葉からまたしても二人の関係は変わったに違いない。
黒子の足を取り静かにキスの雨を降らせていく人物を見ながら、黒子はそんな事を思った。

本当のところは、きっと、恋人だと思っていたのは黒子だけだったのだろうが。




by ヒトデ (10/12/20)

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